江戸時代と現代

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昨日の日記を書いた後、酒を呑んで終電を逃した長尾と友人2人に呼び出され迎えに行った。そのまま、友人宅まで送っていく。送料として、ボーナスがでたおごってくれるそうだ。ラッキー。

長尾のうちに向かう途中、別の友人から電話が来てちょっと寄っていくことにする。ホントはすぐに帰る予定だったのだが、話が込み入ってきて結局、朝7時くらいまでいた。とってもシュールでクリティカルな話題だった。気が滅入ってきた。議題は「パラノイア」について。(パラノイア:偏執病(へんしゅうびょう)ともいう。妄想(もうそう)を主徴とする精神病で,情動・意志面の障害は少ない。多様な定義があり,たとえばE.クレペリンは,内因性に発病し,慢性に発展する妄想体系を示し,それ以外の症状や人格変化を全くきたさない疾患であるとした。そのほか精神分裂病や躁鬱(そううつ)病との関係がいわれることもある。なお,偏執狂(モノマニア)は偏狂ともいい,一つの物事にだけ異常な執着を示す精神症状をいう。)

最近この手の話を良く耳にする。僕の身近でも「変人」がいるのだ。話(その人についての)を聞いてるとすごくイヤな気分になる。世の中にはいろんな人間がいることを知る。こんな人間にだけはなりたくないとつくづく思う。

帰ってきて寝ようか寝まいか迷いながら、HPのマイナーチェンジをする。この日記も少しは読みやすくなったかな??しかし、結局眠くなってきて9時頃寝る。目覚ましを12時頃のセットして。だが、案の定目覚ましは効果がなく起きたのは1時くらい。学校にいくのを諦めて家で勉強する。もくもくと本を読む。

今日読んだ本は成沢光(なるさわあきら)という人の「政治のことば」という本。この本を読むと「江戸時代」と「現代」の人間が大して変わらないことがわかる。例えば、「走り」つまり「ハツモノ」のことだ。江戸時代の人間も現代人と同様「ハツモノ」を喜んだ。野菜にしろ、果物にしろ、魚にしろ・・・。某ワインに早い者勝ちと目の色を変える現代人のようなものである。「ハツモノ」(初物)は元来、豊穣を予祝する意味で神々や貴人に献上されるものだったが、すでにこの時代には消費の対象としか扱われていなかったのだ。初物を食べた人間は周りの人間に自慢する。みな自慢するために味となどお構いなしに高額の金を払って買い求めた。もうこうなってくると「旬」など関係ない。現代は「旬」を知らない人間がたくさんいる。さも言う僕もそうだ。だが、上に書いたような理由で江戸時代にもすでに「旬」を知らない人間がたくさんいたということだ。他にも、花も野に咲く花を尊ぶのではなく、鑑賞用に商品化された花を買い求めたり、神社も賽銭目当てに秘仏の開帳をしたりなど、聖俗のの境目がなくなっていった。ゴミ問題なのもすでに上がっていって、灯籠流しなどはゴミが散らかるという理由からなくなっていったりしている。

これらは「都市社会」である江戸の話であり、当時の日本全国に当てはまるわけではない。でも、もうちょっとロマンチックな事を江戸時代に見ていた僕としてはちょっとがっかりした。ここに挙げたのはごく一部の例なので、まだまだ挙げようと思えば挙げられる。すべて、「速度感覚」の変化から現れるものらしい。「早いが勝ち」とか「善は急げ」とかはこの時代に出てきた諺です。早いことを奨励する風潮はこのころからすでにあったのです。「忙しい」ということがステータスであり、仕事がなくても「忙しく」歩いていることによって自分の存在意義を見いだす。農業のように長い時間をかけて収穫をえることを「ハタラク」というのならば、狩猟のようにその日のうちに収穫をえることを「カセグ」というらしい。江戸時代の人間も速度の遅い「ハタラク」よりも速度の速い「カセグ」を好んだ。死後の利益よりも、現世での利益を追求したからだ。そして、その利益は早ければ早いほどがよい。早く利益を得るには「貨幣」を手っ取り早く得られる「カセグ」が都合が良いというわけだ。みなその日その日の楽しみを享受するために・・・・。

僕は「カセグ」ではなく「ハタラク」の方なんだろうなぁ・・・・。でも、「カセグ」もうらやましいなぁ。ボーナスが欲しい。

参考:成沢光 「政治のことば」 1984年 平凡社選書84

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